わかりにくい治療家の世界のわかりやすい話

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高速道路を走行している車に乗っているのが苦しくて耐えられない人が、   何ともなくなった話

 

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どうも。一度でいいから北海道を車でまわりたいなぁ…と企んでいるきんたろうです。

 

若いころ、車を全損にするような事故を起こした時に、「自分は車の運転が上手くないんだから、調子に乗って吹っ飛ばしてるとそのうち逝くかもしれないな…」という事に気が付いて以来、すっかりおじいちゃんの様な運転でのんびり走るようになってしまった僕ですが、基本的に車で出かけるのは好きな方なので休日にはちょくちょくドライブに出かけたりしています。

 

遠出する時なんかはだいたい高速道路を利用したりするのですが、最近来られた患者さんで高速道路が苦手という方がいらっしゃいました。

 

 

 

今回はそんな方の話。Iさんという30代の女性の方。

 

免許は持っていないため助手席専門との事ですが、ふだん車に乗っていると、高速道路を走っている時に限って何故か車に乗っているのが怖くて耐えられなくなってしまうのだそうです。

 

そのため、車で遠出することができなくて困っている、との事。

 

なんだかよくわからない話ですが、「自分に治せない患者はそもそも治療には来ない」という謎理論が僕の持論なので、とりあえず詳しく話を聞きながら治療を進めていく事にしました。

 

 

 

まずは、患者さんに一つずつ質問をして、出てきた弱さをキネシオロジーテストで調べながら、その弱さを消していく治療から始めます。

 

はじめに「車に乗っている時の状況」を頭の中でイメージしてもらいましたが、特に「弱さ」は現れませんでした。

 

なので、次に「高速道路を走行している状況」をイメージしてもらったところ、今度は途端に「弱さ」が現れてきました。

 

続けていくつかの質問をしていくと、「走行中の電車に乗っている状況」や、「停車中のドアが開かない電車に乗っている状況」などをイメージしてもらっても、同様に「弱さ」が現れました。

 

「車」よりも「電車」という単語でより多くの反応が現れ、その他の乗り物では「弱さ」は現れません。

 

ここで言う「弱さ」というのは、キネシオロジーテストによる「筋力低下を引き起こしている状態」の事を言います。

 

つまり、ある事を思い浮かべてもらう事で、そのイメージがその人にとっての「ストレス」になっている場合、その人の身体に「筋力低下」という肉体的な変化を引き起こしてしまうのです。

 

このような反応というのは、そのイメージを引き金にして「過去に起きた出来事の記憶が呼び起されてしまうために起こる」といったケースである場合が少なくありません。

 

つまり、記憶のどこかに「過去に関するネガティブな情報」が潜在しているため、その記憶が何かのきっかけで呼び起されてしまうたびに、「筋力低下」といった肉体的変化や、「怖くて耐えられない」といった精神的な問題が引き起こされているのかもしれない、という事が言えるのです。

 

そのような問題を確認するために、今度はIさんの身体や脳に「ネガティブな記憶」が残っていないか入念に調べていきます。

 

脳の部分的な場所を一つずつ調べていくと、扁桃体「海馬」で弱さが現れました。さらに具体的な感情の問題と組み合わせて調べると、「不安」と「恐怖」という感情によって弱さが現れます。

 

これはつまりどういう事でしょうか?

 

おそらくですがIさんの場合、「記憶されている場所」として「扁桃体」という部位と、「記憶の処理に関する問題」として「海馬」という部位が関係している、といった事が反応として現れたのではないかと思います。

 

そして、そこに記憶されているのが「不安」と「恐怖」という感情にまつわる記憶であると。そのような事がテストの結果から読み取れるでしょう。

 

そもそも「人の記憶」というものはどこに蓄積されているのか?という事については、科学的・医学的にすべて解明されているわけではありません。

 

特に今回の様な「感情的な記憶」といったものについては、一般的には「大脳辺縁系」、特に「扁桃体」などの脳のいくつかの部位が関与していると言われていますが、じつはそれ以外にも、内臓や身体の様々なところに「感情的な記憶」が蓄積されている、といった事も言われています。

 

そのような「感情的な記憶」の蓄積や処理に関与している部位の問題や、具体的な感情の種類などをテストして、現れた弱さをそのつど処理していきます。

 

ひと通り治療を済ませ、とりあえず弱さが出ない状態にしたうえで、前述したテストの結果についていくつか説明と質問をしたところ、Iさんが過去に経験した出来事について話をしてくれました。

 

 

それは10年ほど前、電車に乗って仕事から帰宅する途中の出来事でした。 

 

乗っていた電車に人身事故が起きてしまい、線路上でしばらく一時停止する事になってしまったのです。

 

突然の事故によって、何時、運転が再開するのか分からないという状況のために、しばらくの間「電車から降りたくても降りられない」という、一時的に車内に閉じ込められた状況になってしまいました。

 

普通だったら、「しょうがないか…」と、適当に時間をつぶしたりしていれば済む話なのですが、この時、Iさんはそれまでに感じたことが無いような気分の悪さによって、その場に倒れ込んでしまったのです。

 

そして、そのまま停車中の電車から救急車で病院に搬送されることに。

 

少しの間、病院で安静にしていた後、家族に迎えに来てもらいその日は帰宅しました。

 

しかしそれ以降、電車に乗ると決まって、何とも言えない「気分の悪さ」や「過呼吸」が起こるようになってしまい、ついには電車に乗ることができなくなってしまったのです。

 

その後、体調は悪化し、仕事に行くこともできなくなってしまったため、しばらくの間、自宅で療養する事に。

 

原因不明の体調不良が一向に回復しないため診療内科で検査を受けたところ、  うつ病」と「パニック障害という診断を下されました。

 

 

一般的に「精神疾患」というのは、「原因がよく解らない」などの理由から具体的な治療法もいまだ確立していないものがほとんどです。

 

その為、治療期間の長期化や再発なども少なくない、とても深刻な問題なのです。

 

Iさんについてもやはり例外ではなく、普通に生活できるようになるまで5、6年くらいの期間がかかったそうですが、その後、若干の症状の再発はあったものの、ここ数年はほとんど問題無く生活できていた、との事でした。

 

本人的には自覚症状も無いため、すっかり治ったものと思っていたようですが、今回の治療に関するテストにおいて「電車に乗っている状況」のイメージで「弱さ」が現れていた事を考えると、「高速道路を走行中」という似たような状況で問題が起きていた原因とは、じつは過去の問題が強く影響していたのかもしれない、という事が言えると思います。

 

 

そんなこんなで治療を終えた後に色々と話をしたところ、Iさんにとっても目からウロコが落ちたような感じだったらしく、

「あー、絶対それかもー!」

と納得していました。

 

でも、なかなかそういった事を「自覚する」という事自体、意外とできない人にはできない事だったりするんですけど、幸いIさんの場合はすぐに認識できたという事が治療の結果にもつながったのだと思います。

 

その後、数週間後に近所でお会いした時には

「先生~!高速乗れたよ~!」

と明るい声でその後の経過を話してくれました。

「ずっと何年もツラかったのに何で~?!」

とビックリしたような、不思議そうな顔をしていました。

 

 

 

さて、前述したように精神的な問題というのはえてして治療が難しく、治療期間も長期化する事が多い厄介な問題と思われがちですが、じつはそうではないのではないか?と最近は思うのです。

 

「こころ」というカタチの無いものは目には見えない。だからわからない。 

 

「見えない」という事は、つまり目を閉じて生活するようなものですから、不安になってしまうのも当然の事でしょう。

 

そのため、「小さな問題」なのに自分の中で「大きな問題」にしてしまったり、あるいは「単純な問題」なのに「複雑な問題」だと思い込んでしまったり…。

 

いわゆる「疑心暗鬼」の状態ですね。メンタルの問題を抱えている方というのは、えてしてそのような状態に陥ってしまっています。

 

では一体なぜ、そのような状態に陥ってしまうのか?

 

そもそも「こころ」というカタチの無いものは、本当に見えないモノなのでしょうか?

 

みなさんは今まで、自分の「こころ」というものをちゃんと見ようとした事が有りますでしょうか?

 

「こころ」とか「自分」とか「メンタル」とか。よく耳にする言葉ではあるけれど、実はボヤっとしたイメージしか持っていないような、そんな曖昧な認識なのではないでしょうか?

 

そういった「曖昧なイメージ」である理由というのは、単純に見ようとしないから見えない、だからよくわからない、案外そんなもんなのかもしれませんよね?

 

そして、シンプルに考えてみれば、「見ようとしないから見えない」という事は、 逆に言えば「見ようとすれば見える」という事でもあります。

 

ただですね、この「見ようとすれば見える」という事が、実は意外とハードルが高かったりもするのです。

 

それは何故か?というとその理由はいくつかありますが、一番の理由はですね、現代に生活している人というのは「情報をたくさん入れ過ぎ」なんですね。アタマの中に。

 

あるいは「情報をたくさん入れられ過ぎ」という言い方のほうが正しいのかもしれません。

 

「現代」というのは、ちまたにたくさんの情報が溢れている「情報過多」の状態になっています。

 

例えば、街を歩いていても様々な音や音楽、あるいは派手な広告や看板などがたくさん溢れていますよね。

 

同時にテレビやパソコン、スマホなどによっていくらでも情報を集めることができる、とても便利な環境も揃っています。

 

そして、そのようなちまたに溢れている情報を「無意識のうちに集めること」に夢中になってしまっている人というのが世の中にはたくさんいます。スマホ依存症」なんかはまさにその典型的な例ですね。

 

そんな「情報過多」の環境の中でさらに仕事や勉強などの情報や、あるいは身の回りの人間関係などの情報まで、次から次へとアタマの中に詰め込んでしまったとしたら、一体どうなってしまうでしょう?

 

普通の人なら頭がパンクしてしまいます。

 

そのため、本来ならばそのような「頭の中が情報だらけでパンク寸前」の状態に気付いて、徹底的に情報の整理や取捨選択などの「情報処理」を行わなくてはいけないのです。

 

ちょっと考えれば、自分が今やっている「情報集め」は実はほとんど意味が無い、という事くらいすぐに気が付きそうなもんですよね。

 

ですが、実際には「情報の収集」に夢中になってはいても、「必要な情報の選択」や「集めた情報の処理」なんか考えたこともない、という人がたくさんいるのです。

 

そういう人というのは「自分の事でいっぱいいっぱい」ですから、当然、他人の事を考える余裕もありません

 

そもそも「自分の事でいっぱいいっぱい」というのが、実際はほとんどが「自分の事ですらないただの情報」を集めているだけだったりするので、それ自体がじつは大きな勘違いなんですけどね。

 

 

「自分の事」ですらない? 

じゃあ「自分の事」ってなんでしょう?一体どこにあるんでしょう?

 

問題はそこなんです。

 

「見ようとすれば見える」という事が、じつは意外とハードルが高い理由というのがそこにあるんです。

 

つまり、大量の「自分の事ですらないただの情報」に隠されて、その奥にある   「本当の自分の姿」というものが見えなくなってしまっているんです。

 

「自分ってナニ?」

「仕事や家の事で忙しくてそんな無意味な事考えてられない」

 

世の中、そんな人がたくさんいます。

 

でも、それって本当に「無意味な事」なんでしょうか? 

むしろ、最も大事なことなのかもしれないのではないでしょうか?

 

 

「現代に生きる人」というのは、常にそのような「頭の中のゴミ掃除」を必要としているのかもしれません。