「厄落とし」と「病気」の関係とは?
やく【厄】
1.わざわい。災難。
2.よくない巡り合わせ。
”人間の生命や生活の健全と安定をそこなう要因になると考えられている災難・障害に関する心意現象をいう。
時間の次元では厄日,厄月,厄年があり,空間的には厄の生ずるという場所があるが,厄をもたらすという神も考えられており,それらを避けるための呪的方法が多く生み出されている。”
一般的には「厄払い」とか「厄落とし」などといった言葉で表現される、 「厄」というカタチの無いもの。
「分かっているようで分かっていない言葉」ランキング第八位くらいに入るであろう、この「厄」というものについて、分かっているのか分かっていないのかよく分からないようなフワッとした感じで説明をしていきたいと思います。
例えば「透明のグラス」があったとします。
それを、屋外の雨ざらしになるようなところにしばらくのあいだ置いておいたとしたら、この透明のグラスは一体どうなってしまうでしょう?
まず、時間の経過とともに雨で汚れてすすけてきます。 さらにそのまま放置していたら、強風によって倒れてひびが入ってしまったりもするかもしれません。
この「汚れですすけてしまったり、ヒビが入ってしまった状態」。 簡単に言うとこれが「厄が付いた状態」です。
そしてこの「厄が付いた状態」のグラスの中にあなたが居るとイメージしてください。
あなたはまわりの世界を「厄が付いたグラス」を通して見ることになります。
当然ながら、あなたからはまわりの世界の事が見えづらくなってしまうために、物事を正しく見ることが出来なくなってしまったり、あるいは物事を見誤ってしまったりといった事が多くなってしまうでしょう。
その結果、間違った判断をしてしまったり、間違った方向に進んでしまうといった事が起きてしまうわけです。
「厄年には悪いことが起きる」という迷信には、実はこういった理由があるんですね。
また、一般的に「厄」というものは年齢を重ねるとともに蓄積していくものでもあります。
例えば、あなたの身近に幼い子供が居たとします。
子供というのはたとえ他人の子供であっても、とても可愛くてキラキラしています。
ただそこに居るだけで周りの人を笑顔にしてしまうような、そんな魅力に溢れていますよね。
ですが、そんな幼い子供のキラキラした空気も、年齢を重ねるとともに何故かその魅力が失われていってしまいます。
小学校、中学校、高校と成長し、成人する頃にはすでに幼いころのキラキラした空気を全く感じられなくなってしまっている人というのも少なくありません。
この「キラキラした空気を全く感じられない状態」。 まさしくこれが「厄が付いた状態」なんです。分かりやすいですねー。
まぁ、まれにですが大人になってもその「キラキラした空気」を持ち続けている人というのも居たりしますが、そういった人というのは、もしかしたら何か目に見えないものによって守られていたりするのかもしれませんね。
さて、この「厄」というもの。具体的にどういったものが「厄」になるのでしょうか?
大ざっぱに説明すると、例えば「思考」とか「感情」とか「意識」とか「固定観念」などといった「自分の中にあるもの」。
これらのものは「もともと自分の中にあるもの」だけではなく、「自分の外から与えられたもの」も含みます。
それから、「情報」とか「状況」などといった「自分の外にあるもの」。
そういったものの全てが、場合によってはあなたにとっての「厄」になってしまう可能性があるのです。
例えば、最近読んだ本にこんなことが書いてありました。
「ワインなどの生きている液体は、長く置いていると底に「澱み」が溜まる。同様に、人も長く生きると「澱み」が溜まってしまう。ワインの底の「澱み」がワインの味を壊してしまうように、歳をとった人間の「澱み」は若い人間の気持ちをダメにする。」
ここで言う「澱み」とは何か? という事についてはその本の中では触れていませんでしたが、でもコレってなんとなくわかるような気がしませんでしょうか?
世の中には、歳をとって「頭がカタくなる人」っていますよね。 そういう人というのはある日突然、頭がカタくなるわけではありません。 少しづつ、少しづつ、色んな経験を経て変わっていってしまうのです。
また、「年長者」というのは若い人に対して強い影響力を持っている場合が多かったりもします。
「両親」という存在などがまさにその典型的な例でしょう。
そういった、色んな経験を経て「澱み」をたくさん溜め込んでしまった人間から影響を受けた子供や若い人は、その強い影響力によって一体どんな人間になってしまうでしょう?
このような事を、「厄」という表現の他に例えば「潜在意識への植え付け」とか、あるいは「インナーチャイルド」などといった表現をしたりもします。
あとは、より意図的のもので言うと「洗脳」とか「マインドコントロール」などといったものもその類に含まれるでしょうか。だんだん怖い話になってきましたね、フフフ…。
まぁ、いきなり「厄」というものの最もやっかいな例で説明してしまいましたが、実際にはもっと軽いものもたくさんあったりもします。
ただですね、実際にそういったものを無くそうと思った場合、その方法というのが実は結構やっかいだったりするのです。
一般的には、いわゆる「厄落とし」とか「厄払い」、あるいは「浄化」という作業が一つの方法ではあるんですが、こういった方法というのは、基本的には「グラスの汚れ」とか「グラスのくすみ」程度の軽いものに対しては非常に有効だったりします。
ですが、これが「グラスのヒビ」位のレベルになってしまうと、まぁなかなか難しかったりするんですね。
もうホントにメンドクサイです。時間もかかるし一筋縄じゃ行きません。
なのでその場合、基本的にはほとんどのケースでずっとそのままだったりします。 放置ですね。
ですが、現実問題としてはそれもひとつの対処方法でもあるんです。
つまり、「受け入れてしまう」という事ですね。「そういうもんだ」と。
まぁ、それはそれで簡単な事では無いかもしれませんが、根本的にキレイにするよりはずっとラクな方法ではあります。
で、まぁ話を戻しますけど、「厄落とし」です。神社なんかで神主さんが榊の枝でワッサワッサってやりますよね。あとはホンダラハンダラって祝詞をあげたりとか。年末の時期には「大祓い」を行ったりもします。
ああいったものというのは、例えば厄年の時に神社に行って「厄払い」という形で行ってもらうというのが一般的かもしれませんが、だからといってそれで全て無問題というわけではありません。
「厄払い」をしてもらっても不幸な事が起こる場合というのも当然あります。人によっては何度でも。
でも、「厄払いしたのにどうなってんだ!金返せ!」と怒っても仕方がないんです。何故なら、それだけその人が「厄だらけ」だという事なんですから。
つまり、人が生きている以上、「厄」というものは常に付きまとってしまうものなんですね。年に一回の「厄払い」では足りない、という人も当然居るでしょう。
だからこそ、普段から「浄化」などを行う事が必要になってくるわけなんです。
ちなみにここで言う「浄化」とは、簡単に言うと「厄払い」とか「厄落とし」などよりももっと「手軽に自分で行う事が出来る方法」の事を指していると思ってもらえればいいでしょう。
やり方は結構簡単だったりするんですけども、意外とその効果は侮れなかったりします。
例を挙げると、止められなかったタバコをなんの努力もせず止められたりとか。そういった事が普通にあったりします。
んでまぁ、具体的な方法としては、例えば水晶を身に付けるとか、荒塩や日本酒を使うとか、あるいは神社に行くとか色々ありますが、その辺の事はネットで検索するといくらでも出てくると思います。
そういった「浄化」の具体的な方法というのももちろん大事なことではあるんですけど、実はそれ以上に重要な事があるのです。
それは何かというとですね、普段から「厄」とか「浄化」とか「厄落とし」といった事を「常に意識する」という事が最も重要なんです。
例えば、みなさんは自分のからだの「汚れ」とか「体臭」とかが気になったりする事ってありませんか?
そういった「汚れ」や「体臭」というのは、意識するから気付くもので、気付くからこそ風呂に入ってキレイにするわけですよね。
「厄」というものも実は同じなんです。意識しなければ気付きません。でも意識を向ければ気付くのです。
「厄」というものに意識を向けて、その存在に気付くことができれば、それを「浄化」することができ、「浄化」することができれば、物事を正しく見ることができるようになるのです。
そう、「ピカピカに磨いたグラス」を通して見るかのように。
そしてその結果、正しい方向に進むことができ、物事がスムーズに進んでいくようになる、という事なんですね。
そのような影響というのは当然さまざまな事に関連していきます。「直接的に」というよりは「間接的に」影響するでしょう。
仕事や家庭、あるいは人間関係など、あなたにとってのすべてに影響すると言っても過言ではありません。
当然、「病気」などといった問題も実は「厄」というものが大きな原因の一つになっていると考えられます。
つまり、「厄」というものを放置することで結果的に病気を患い、「浄化」をすることで病気が治る。そういった事が起こるのです。
にわかには信じがたい事かもしれませんが、案外、世の中ってそんなもんです。
例えば、うちに来た患者さんでこんな方がいました。
背中の痛みが治まらずツラい、と治療に来たOさん。自分ではどうしようもないために治療に来ました。
当然ながら僕は専門家として治療をし、痛みに対する対処方法や食事などで気を付けることをアドバイスします。
ですが、 そういったアドバイスをなぜかOさんは受け入れてくれません。
からだの問題というのは、えてしてその人の日常生活に原因があったりするもので、実際に検査においてもそういった原因が現れているにもかかわらず、その事についての説明には全く理解を示してくれません。
これって不思議な話だと思いませんか?
自分ではどうしようもないから、専門家を頼っているわけです。
にもかかわらず専門家のアドバイスは受け入れられないと。あきらかに矛盾していますよね。
実はこの患者さん、少しだけ精神的な問題を抱えている方でした。
仕事上の問題にずいぶん悩まされているとの事で、メンタルの問題を調べた時に出てきた感情は「不信・疑惑」。
そういった問題が影響して強いストレスを感じ、たびたび胃の不調も訴えていたのです。
主訴であった背中の痛みは、実はその胃の不調から引き起こされている症状でした。
つまりOさんは、自身の感情にあった「不信・疑惑」という「厄」を通して物事を判断しなくてはいけない状態であったために、結果として正しい判断ができず、前述したような「矛盾した受け止め方」しかできなくなってしまっていたのです。
そして、最終的にOさんは治療を途中で止めてしまいました。
「厄」というものが病気を引き起こし、さらに治療を遅らせてしまった典型的な例ですね。
当然、こういったケースの他にもたくさんの「厄」になり得るものは存在します。
多いところで言うと「お金」「時間」「仕事」「思考」などでしょうか。
プロのスポーツ選手なんかだと、メンタルの問題に対して「理論的に考えすぎてダメになる人」というのが少なくないようです。
それはおそらく、「メンタルトレーニング」というものがほとんど普及していない、あるいは誤解されている、といった問題が現実的にはあるのだと思います。
あとは「インナーチャイルド」の問題を抱えている方というのもものすごく多いですね。
その辺の事というのは、実は僕自身もかなり苦労させられたのですごくよく分かります。
ただ、やはりそれもまた一番の問題は、そのような問題自体の存在に「気が付いていない事」なんですね。とにかくそれに尽きます。
ものすごく色々とツラい。うまくいかない。でも何でか分からない。原因が分からない。原因があるという事すら気付いていない。そんな状態です。
その場合、どのような問題が、どの位のレベルで起きているのかという事については当然、個人差があるでしょう。
仮にそれが「病気」などの形で起きている場合、性急に「病気」そのものの治療を始めてしまう前に、まずは
「自分にとってその病気は一体どのような意味があるのか?」
といった事を、自らに問いかける必要があるのかもしれません。
そして、その「病気」を引き起こす大きな原因になっているかもしれない「厄」という「見えない原因」から対処する事によって、その後の治療の効果や結果・予後などに大きな差が生まれる、といった事が決して少なくはないでしょう。
「病気」が治る人と治らない人の差、というのは案外、そういった所にあるのかもしれません。